台湾の光明

 仕事で台湾に行った。台湾は人々の気質といい嗜好といい日本に近く、私にとってはとても居心地のよい国である。

人によってはこの「日本らしさ」が、外国に来たという気分に浸れずに「つまらない」と思うらしい。

この日本らしさはもちろん日本の約50年に亘る植民支配のもたらした遺産であることはいうまでもない。


 考えてみると台湾のアイデンティティは複雑である。

侵略、移民の繰り返しの中で常に新しい血と価値観を押し付けられながら、その都度「われわれは何者なのか」という問を突き付けられてきた。

台湾はもともとオーストロネシア系にもつながる人々(いわゆる「原住民」)が多数住んでいた土地。その後、漢民族が大量流入し中華帝国(清朝)の一部に組み込まれ、台湾の主役は漢民族へと変わる。

19世紀には日本帝国の植民地となり日本化が進む。

戦後、日本を追い出したと思いきや大陸から共産党に敗れた国民党がこぞって来島、彼ら「外省人」が台湾のご主人然として政治を牛耳る。

それぞれの過程で弾圧、虐殺、支配を伴った。そして90年代以降は労働力不足を埋める外国人労働者がフィリピン、インドネシア、ベトナムから大量に流入し、一部は定着。


 「台湾人」とは何なのか、という根本的な問題に突き当たる。

絶えず島外からの侵略と移民を受け入れ、そのたびに対立と融合を繰り返しながら社会の主役脇役が変わり、アイデンティティの組み換えを行う。

さらには憲法も軍隊も兼ね備えて普通の国家なみの様態を整えながら、大陸中国との関係では「国家」であるかどうかも不確かな存在であり、実際、国際社会から一人前としては扱ってもらっていない。

台湾の人々は「中国人」なのか「台湾人」なのか。「台湾人」の中身は何者なのか。


 こんな疑問を立ててしまうのは日本人だからかもしれない。

日本人とは何かについて「根拠のない確信」を抱き、常に外国勢力から「独立」していたという歴史認識を日本人はほぼ共有している。

しかし考えてみれば「揺らがぬアイデンティティ」「他の価値観と融合しない社会」は先進国・途上国問わず、世界では例外的と言える。

アジアでは絶えず多くの民族が移動侵略を繰り返し支配領域の再編を継続的に行ってきた。

現今の欧州でさえ、共同体作りに向けてアイデンティティの組み替え作業に苦労している。

人類は長い歴史を通じて常に新しい状況におけるアイデンティティを問われ続けてきたわけである。ましてやグローバル化が進行し、人の移動がより活発になり、また一方で「領土問題」なども浮上する状況の中では新しいアイデンティティのあり方が日本人にも求められているのである。

国民とは何か、国家とは何か、民族を超えた交流とは何か…。


 自らのアイデンティティに疑問を挟まず、つねに文化や社会の「固有性」に固執してきた日本人の様は、世界的には例外的ともいえるし、感覚的にずれているともいえる。

実際、日本が単一民族国家などというのは幻想であるし、日本人が何者であるかを論理的に証明できる人など誰もいない。

そうした意味では日本も台湾と同様の問題を抱えている。

程度が違うだけである。他の国々とずれていて結構、わたしはわたしでオンリーワン、という考え方もあろうが、これから若い日本人がグローバル社会の中で生きていかねばならないことを考えると、グローバル感覚に若干の思いをはせる必要があるかもしれない。


 台湾の「日本らしさ」は、それを好むと好まざるとに拘わらず、そんな問題を日本人に投げかけているような気がする。


 否、もしかしたら、台湾人はアイデンティティの確認などという近代性modernityのもたらしたわずらわしさから、とっくに解放され、奔放にしているのかもしれない。

であるとするなら台湾は、国民国家の分裂と市場の普遍化のはざまに揺れるグローバル社会の矛盾を切り拓く急先鋒である。国家なぞにこだわらぬ社会、ゆらいだアイデンティティが当たり前の社会、こんな緩やかな世界を想像するだに夢は広がる。


 心地良い台湾の路傍で八角の香りのきいた牛肉麺を食べながら、こんなことを考えた。

 

2012.11